« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »

2011年2月

2011年2月26日 (土)

葛藤

どうしても、仕事に行くと言う夫。
会社を休むとか、辞めるとかの選択はなくはない。
でも、夫は、最初の胃ガンの切除で
とりあえずは、治ったと言う気持ちでいた。

だから、今度も、治療をすれば必ず治る・・・
と、思っていたようだ。
しかし、医師からの説明とインターネットからの情報で
私のほうは相当危ないと言う事を悟っていた。

同じ説明を受けたのに
夫のほうは、私ほど死を意識しなかったようだった。
そしてゲルソン療法も始め
本当に前向きだった。

夫にしてみれば、定年まで仕事を続けて
関連会社へ行く・・・と言う
今までのパターンに乗って
65歳まで働くために頑張っていた。

当時54歳。
2年後にはその時期がくる。
病気の時期は、夫の仕事にとっては
とても微妙な時期になってしまっていた。

会社を休んでしまって
有給休暇が終わってしまったり
傷病休暇を使う事になってしまうと
関連会社へ行けずに定年になってしまう。

私にしてみると
「夫が第二の人生に行ける事は
ないかもしれない・・・」
そう、心のどこかで覚悟はしていた。

それだったら、仕事を辞めて
まだいくらかでも動けるうちに
夫の母がいてできなかった
二人だけで出掛けると言う事をしたり.
ゆっくり体を休めて1日でも長く・・・と思ったりしていた。

しかし、仕事を辞めるように言う事は
夫が仕事を続けたいから
病気を治すために頑張ろうと言う気力を
断ち切る事に他ならなかった。

私のほうは
何回も何回も同じ事ばかり考えていた。
夫が仕事ができなくなったら
私が働かなくてはならない。

でも、私が働きに出ていて
留守の間の夫に何かあったらどうしよう。
そして、病院には誰が連れていくのだ。
病院のたびに仕事を休む訳には行かないだろう。

とりあえず、もしも、会社を辞めたとしても
退職金は出るから、それで治療はできる。
場合によっては
私は夫の看病に専念したほうが良いかもしれない。

そして、最後に
夫を、どうやって説得しよう。
辞めるように言って気力を失ってしまったら
もう、駄目だと思ってヤケになってしまったら・・・

希望と気力だけで頑張っている夫から
その二つを取り上げてしまったら
どんな事が待っているのだろう?

それだったら、見ている事が辛くても
夫が会社へ行く事に協力し
ゲルソン療法に希望を見いだしているのなら
自分もとことん信じて食事を作り
夫を支える事しかないのかもしれない。

頭の中は、そのことばかりが
堂々巡りをしていた。
同じような葛藤は
死を間近にした時の
ゲルソン療法にもやってくる事になる。

ブログランキングに参加しています!
クリックしてくれたら嬉しいなぁ・・・heart01
↓↓↓
にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村

【ポイント10倍対象商品】カパーチェ 180g

【ポイント10倍対象商品】カパーチェ 180g
価格:378円(税込、送料別)

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2011年2月23日 (水)

自宅との往復

2009年6月16日(火)~17日(水)は
37.2度の微熱だったが
6月18日(木)になると
熱は37.8度になり
下痢はいっそう激しくなった。

次の日も相変わらず38度近い熱が続き
下痢も激しく腹痛も伴うようになったが
夫は会社へ行くと言ってきかなかった。
会社では打ち合わせが毎日のように入っていた。

あと2日すると
やっと会社が休みの日になるが
夫は自宅へ帰らなければ・・・と
自宅の事を気にしていた。

自宅まで高速で1時間はかからないが
レオパレスにいれば狭いため
ベッドに横になって
テレビをみる事くらいしかする事はない。

自宅へ帰れば熱帯魚の世話をしたり
庭の事も気になったりして
結局は動いてしまうに決まっていた。

熱帯魚は、タイマーを使って餌をやり
朝の7時に電気がつき
夜8時に電気が消えるようにセットしてあったが
結局水を取り替えたり
ガラスの苔を掃除したりしなければならなかった。

この頃までは金曜日に会社が終わると自宅へ帰り
金曜・土曜と自宅へ泊まり
日曜日のお昼過ぎに
レオパレスに戻ってくる生活だった。

ゲルソン療法をしているため
食材はそのたびに全て持ち運びをした。

野菜や飲み物等で大きなアイスボックス1つと
小さいアイスボックス1つ
スーパーで使うマイバスケットが
毎回毎回、自宅とレオパレスの間を往復した。

レオパレスの部屋は2階だったので
この重い荷物を持ち運びするのに
夫が寝ている間になるべく運んで用意はしたのだが
見つかると夫は自分が運ぶと言って譲らなかった。

自分が男である事の
プライドだったのかもしれない・・・
私のほうは、この頃には力仕事から何もかも
夫にみつからなければ全てこなしていた。

でも夫が運ぶと言うものを
無理だから・・・と止める事もできなかった。
夫は荷物を運んだり力仕事は手を出そうとしたが
さすがに車の運転はしようとしなかった。

もともと、お酒を飲む事が多かった夫は
運転は鮎釣りに行くくらいしかしなかったし
一緒に外出する事など、あまりなかったせいで
私は、助手席に乗って・・・などと言う事は
結婚してからは、ほとんどなかった。

この週は自宅から30分ほどの
かかりつけの病院へ行く事にした。
ガンの治療をしている病院では
血圧の薬に対して何の処置もしてもらえないので
かかりつけの医師に確認をしようと言う事になっていた。

そのため、いつもは金曜の夜に帰るのだが
土曜日に病院に寄りながら帰ろう
と、私が提案した。

夫は、何だかんだと言いながらも
金曜の夜をレオパレスで過ごし
少し体は休まった様子だった。

ブログランキングに参加しています!
クリックしてくれたら嬉しいなぁ・・・heart01
↓↓↓
にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2011年2月20日 (日)

体調不良

病院の手違いで急遽退院させられた夫が
30分かけてレオパレスに帰っていたり
ましてや高速で1時間かけて
自宅に帰っていたのでなくて
不幸中の幸いだった。

抗ガン剤の点滴をして休む間もなくの移動は
想像を絶するものがあると思う。
そんな事はあったが
何とか6月13日(土)に退院して自宅へ帰り
次の日の夕方にはレオパレスに戻ってきた。

2009年6月14日(日)退院の次の日
会社が休みだったから良いようなものの
夫は夜37.8度の熱を出した。
強い頭痛もともなっていた。

土曜日には自宅に帰ったのだが
日曜日にはレオパレスに来ていたので
薬局やスーパーが近くにあったため
とてもありがたかった。

水枕がレオパレスになかったため
薬局で水枕を買った。

夫は
「わざわざ水枕買ったん?sweat02
無駄な事をして・・・
と言うような顔をしたが

私は、これから先も使う事になるのだろう・・・と
黙って氷と水を入れて水枕を頭の下に差し込むと
「気持ちいいなhappy01
と、笑っていた。

冷えピタも額に貼ってみた。
今までなら
「そんな事、いいよgawk
と言うようなタイプの夫だったが
黙って私がする事に従った。

次の日は熱が37.2度
腹痛と下痢がひどくなった。

立ちくらみがして、それと同時に
目の前が暗くなる・・・と言っていたが
休む訳にはいかない・・・と言いはるので
会社まで送り迎えをした。

ブログランキングに参加しています!
クリックしてくれたら嬉しいなぁ・・・heart01
↓↓↓
にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2011年2月16日 (水)

ミス

電話は担当の医師からだった。
夫は
「わかりましたthink
と言って電話を切った。

「何?何だって?」
と聞くと
「手違いなんだってさ。
病院に戻るんだgawk

そう言って私に病院まで送るように言った。

病院に着くと
抗ガン剤の点滴をしていた部屋とは違う部屋だった。
看護師が来て、平謝りに謝って行ったが
私達には理由がわからなかった。

しばらくすると担当の医師がきて
この人も謝っていた。

理由を聞くと、ベッドが足りなくなったため
看護師の勝手な判断で
退院できそうだと思われる人を
医師に確認もしないで退院させたと言う事だった。

「こんな事って、たまにはあるんですか?coldsweats02
と、聞くと
「前代未聞です。今までこんな事はありません。
だいいち、抗ガン剤が終わったあとの点滴は重要なんですangry

そう答えた。

医師からの説明では、抗ガン剤の後の点滴は
正常な細胞にも危害を加える抗ガン剤を
早く体の中から出すためのものであり
そうしないと腎臓に負担がかかると言う事だったはずだ。

しかも、ここのところ
夫の腎機能は低下が認められている。

医師は
「病院からのタクシー代はお支払いしますから
請求してくださいsweat01
と言ったが実家までの5分くらいのタクシー代など
請求する気にもなれなかった。

それよりも、私がいなくて
看護師の人も面倒みてくれなくて
抗ガン剤の点滴が終わったばかりで
入院の荷物を一人でまとめて

自分でタクシーを呼び
ふらつく足で私の実家の門をくぐった夫が
この後具合が悪くなるんじゃないか?
と言う事のほうが心配だった。

ブログランキングに参加しています!
クリックしてくれたら嬉しいなぁ・・・heart01
↓↓↓
にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2011年2月13日 (日)

急遽退院

2009年6月10日(水)
点滴の抗ガン剤をするために入院した。

9時から血液検査をし
抗ガン剤の前の点滴をし
抗ガン剤、その後の点滴をし
2009年6月13日(土)に退院した。

抗ガン剤の点滴は
シスプラチンと言うことだった。

その後の点滴は
正常な細胞にも危害を加える抗ガン剤を
早く体の中から出すためのものと言う説明だった。
なんでも、そうしないと腎臓に負担がかかるのだそうだ。

入院の期間は、食事がネックになった。
病院食とは言いながら
案外油っぽいものも出る。
塩辛くて食べられないようなものも出る。

ゲルソン療法などと言うと
医師から何を言われるか解らないので
自宅から食事を届けて良いか聞いて
了解を得た。

とにかく3食だから、こちらも大変だった。
幸いレオパレスから病院までは
30分ほどで行けるので
自宅の時のように高速で1時間かかる事を思えば
食事を運ぶのは楽だった。

玄米のごはんと
おかずは、ほとんど蒸した野菜。
あとは玄米酢と三温糖を使って漬けた野菜。
のり、納豆はたれをつけないでそのまま食べた。

この頃は、ゲルソン療法もどうして良いのか解らずに
毎日、こんな食事しかできなかった。
マニュアルにあるとおりのスープや
野菜を煮たり焼いたり少しのオリーブオイルで炒めたり・・・
そんな食事を3食病院に運んだ。

しかし、ここでも信じられない事があった。
入院1日目は抗ガン剤の点滴の前の点滴をし
2日目に抗ガン剤の点滴をした。
私は、この日だけは抜けられない重要な仕事が入っていた。

でも、抗ガン剤の点滴は初めてではないし
入院もしているので仕事に出かけた。
お昼を少し過ぎた頃、夫から電話が入った。
私は電話に出られなかった。

すると、メールで
「退院するから迎えに来られる?」
と言ってきた。
私は意味がわからなかった。

「なんで、退院なの?
今日の用だけは、はずせないんだよdespair

と返信すると
「解った。
タクシーでステッピーの実家まで行って待ってるよhappy01

と、返事がきた。

夫が理由を告げなかったせいで
私は不安にかられていた。
いったい何が起きているのだろう?
上の空で仕事を終わらせると
急いで実家へむかった。

夫は
「おかえりぃ~happy01
と言って、私の父親とテレビを見ていた。
「おかえり・・・じゃないよshock
何したの?なんで退院なの?」

そう聞くと
「病院の都合なんだよconfident
と、答えた。

内容を聞くと
ベッドがいっぱいだったため
退院してほしいと言われたそうだ。

そんな話をしながら実家にいると
夫の携帯に病院から電話がかかってきた。

ブログランキングに参加しています!
クリックしてくれたら嬉しいなぁ・・・heart01
↓↓↓
にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2011年2月 9日 (水)

血圧

2009年5月20日(水)から
TS-1は2週間、休薬期間となった。
5月25日(月)午前9時から病院で採血
腎機能低下、白血球低下。

6月3日(水)午前中休暇をとり
病院で採血、6月4日(木)から
TS-1の2クール目となった。

夫は若い時から血圧が高かった。
夫の両親も高かったので
遺伝と言う事もあったと思う。

でも、やはり田舎であり
しかも冬は雪深い山の中
夫が子供の頃は車が通る道もなかった
・・・そんな話だった。

病院に行くにも
雪のない時には5キロほどの道のりを歩いて
駅まで行って電車に乗り
街の病院まで行ったようだった。

雪のある時には
駅まで病人をソリに乗せて行ったと言う話だった。

そんな中
食べ物が思うように手に入る訳もなく
塩漬けにした食料品を
大量に食べて育ったのだと思う。

知り合った頃からすでに血圧は高く
具合が悪い時は
たいがい血圧の上が180を超えていたりした。

自分でも血圧の事は気にしていて
塩分の取りすぎには気をつけていたようだったが
なんと言っても、外で毎日のように飲んでいたのだから
家にいる時だけ気をつけてもたかが知れていた。

私は、もともと血圧が低く
上が90に満たない事も多かったので
まったく体質が違う夫婦だった。

夫の母も血圧が高かったので
低血圧の症状に理解がなく
ここでも苦労したものだった。

実家の母親が心配して
漢方を買っては送ってきた。
当時それを煎じて朝晩飲ませる・・・と言う
私の仕事が一つ増えて大変だった思いがある。

それても、血圧の上昇は止められず
夫は30歳前半で
すでに血圧の薬を飲み始めていた。
同時に、すでに胃の薬も飲んでいた。

そんな夫だったのに
TS-1を飲み初めてしばらくすると
血圧が異常に低くなってきた。

低血圧の私と同じで
上が90くらいの時が多くなった。
病院に言うと、血圧の薬は
今までのかりつけの医者から出てるので
そっちに相談するようにとの事だった。

なんだか、割り切れない気持ちを抱えて
自宅へ帰った時に
今までのかかりつけの医師のもとへ
行ってくる事にした。

ブログランキングに参加しています!
クリックしてくれたら嬉しいなぁ・・・heart01
↓↓↓
にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2011年2月 6日 (日)

体重

次男と和解をした夫は
ひたすら抗ガン剤との戦いになった。

2009年5月15日(金)の退院の際に
夫は病院からチェックシートをもらってきた。
毎日体重を計り
自分の様子を記入していた。

2009年5月16日(土)には
体重は55キロ・・・
身長は180センチほどある夫だった。
もともとスマートのほうだっが
ガリガリという表現があてはまるようになった。

身長が高く、歳をとってもお腹が出る事もなく
スマートで、スーツをシュッと着こなしている夫は
田舎では、人目をひいた。

良く近所の奥さん達から
「あんなに、スーツの似合う人はいないねheart04
などとお世辞を言われたものだった。

私が会社へ入って2年目に
ダンスパーティーに行った時
168センチの私と誰も踊ってくれる人がなくて
壁の花になっていた私のもとへ
遠くから駆けつけてきてくれた事もあった。

そんな時は私はダンスが下手だったが
夫のおかげで、何げに注目を浴びたりもした。
そんな夫のスーツ姿も
スーツに着られているように、ぶかぶかになって行った。

結婚当初は72キロほどあった体重が
お酒ばかりを飲んで食べるものも食べないで
寝不足をしているうちに
68キロになり、65キロになり
最初の胃ガンの手術の頃には63キロになっていた。

2009年5月20日(水)の
TS-1が1クール終了の際には
体重は52キロになった。

TS-1を飲んでいる時には
37度くらいの微熱が続き
だるさと頭痛と下痢に悩まされていた。

体重の減少は下痢のせいかもしれないと思った。
こんな事で栄養はとれているのだろうか?
と、不安になった。

TS-1を飲まなくなって2日ほどすると
だるさが多少改善したようだった。
下痢の症状も少し落ち着き
全てが薬の副作用だ・・・
と、思わずにはいられない状況だった。

抗ガン剤を飲まないのは2週間
その間に体重は少しづつ増えていたが
55キロまで戻らないうちに
又、次の抗ガン剤の時がやってきた。

ブログランキングに参加しています!
クリックしてくれたら嬉しいなぁ・・・heart01
↓↓↓
にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2011年2月 2日 (水)

和解

結局、夫の母親の脅迫により
家を出られなくなった私は
見た目普通に生活していた。
と、言うより努力していた。

相変わらず、夫と次男は口もきかず
同じ空間にいる事もできず
その間に入って私は大変だった。

夫の母とは必要な事は話すが
世間話はしなくなった。

それでも、食事を作り
歯医者、眼医者、血圧の医者
美容院、買い物・・・の運転手をし
普通の嫁・・・普通の家政婦兼運転手をした。

もともとテレビのチャンネル権もなかったのだが
夫の母と話をしなくて済むので
ますますパソコンに
のめり込むようになった。

インターネットをするだけではつまらなくなり
システムをいじったり分解したり
メモリを増設したり
ハードディスクを交換したり
そんな事で遊ぶようになった。

次男が高校3年の時
夫の母が亡くなった。
同居25年目だった。

夫には悪いが
「もうゴールはないのだsweat01
と下を向き、がむしゃらに走ってきたら
知らないうちにゴールのテープを切っていた・・・
そんな気持ちだった。

そこからは、夫の姉妹からの攻撃が始まった。
夫の母が
「自分は何もしていないのに
急にステッピーがいじめるようになったcrying

と、さかんに娘たちに訴えていたせいだった。

夫が頼りにして相談をしていた
すぐ上の姉だけがかばってくれた。
すると、今度はその姉にも
とばっちりが行くようになってしまった。

次男は小学校6年生から夫と口をきかなくなり
中学3年で大騒動があり
初めの事件から6年後
高校を卒業して大学に進んで寮に出た。

夫とは、家へ帰ってきても口をきかなかった。
夫が胃ガンの手術をした時
連絡をしたが、とうとう次男は見舞いに来なかった。

「お父さん、反省してると思うよsweat02
そう言ってみたが、次男は
「酒をやめなければ許さないgawk
と突っ張った。

夫は胃ガンの手術をして間もなく酒を飲み始めた。
次男は、相変わらず口をきかなかった。
そして腹膜播種になって、その事実を告げた。
「お父さんは、今度こそはお酒飲まないよ。
でも、危ないらしいんだ・・・」

そうメールした。

次男は恐山に行って
祈祷してもらって御札を届けにきた。
夫に恥ずかしそうに渡すと、夫は
「ありがとうhappy01
と言って笑っていた。

それから、二人は話をするようになった。
確執から9年・・・
やっと二人にとっての長い冬が終わった。
次男は大学3年生、就職の話もしたいようだった。

夫の退院から間もなくして
焼肉屋へ行って3人で食事をし
食事制限のある夫は野菜ばかりを焼いて
タレもつけずに食べていた。
束の間の平和な時間だった。

次男にとっては21年間のうち
半分近く父親と絶縁になっていた。
でも、もしも和解できないまま夫が逝ってしまっていたら
どんなにか後悔が残ったろうと思う。

それから8ヶ月・・・
去年の今日は夫が旅立った日。

ブログランキングに参加しています!
クリックしてくれたら嬉しいなぁ・・・heart01
↓↓↓
にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村

| | コメント (8) | トラックバック (0)

« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »