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2012年5月

2012年5月30日 (水)

次男の就職

レオパレスのある市を離れたくないのは
夫との思い出があるのはもちろんだったが
同級生のAちゃんの家が近い
と、言うのも大きな理由だった。

自宅の近くにも
嫁いでからできた親友がいて
時々遊びに行ったりはしていたのだが
夫の母親の目を盗んで行くようだった。

高校時代だって
同級生の家はそれなりに遠く
車の免許をとるまでは
容易に遊びには行けなかった。

しかも、実家の父親も
友達と電話をしたり遊びに行くと言う事を嫌って
家の中に閉じ込めておきたがったため
独身時代も結婚してからも
友達と自由に会う事は難しい環境だった。

だから、こんなに近くに同級生がいて
都合さえ合えば
いつでも自由に遊びに行けると言うのは
生まれて初めての事だった。

仕事さえ近くにあれば
場合によっては、レオパレスから
普通のアパートに引っ越しても
ここに留まる事ができる。

そんな事を考えながら
私は、その市の近辺で
仕事を探し始めた。

でも、そこにはあまり仕事がなかった。

もともと事務をやってきて
自営業は接客だったが
自分に向いていなくて
本当にイヤだった。

ここへきて
自分のとりえと言ったら
パソコンができるくらいの事しかなかった。

過去にとった検定の
珠算や簿記などは
今やほんど役には立たなくて
求人のところにはなかったし

たとえあったとしても
今から、それを思い出してするのは
自分でもしんどかった。

そんな頃
大学4年生になっていた次男の
就職が決まった。

夫と9年近く断絶状態だった次男は
夫が亡くなる少し前に
ようやく夫と会話をするようになり
夫が亡くなる頃に、やっと親子らしくなれた。

夫と次男の話はここをクリック(←良かったらクリックして読んでね)

そして、次男は
夫が勤めていた会社の
関連会社へ就職を希望して内定をもらった。

夫の会社の関連会社を2つ受けて
一つは2次試験を受ける直前に
最終的に行く事になった会社の
内定の連絡をもらったため辞退させてもらった。

もう一社
夫の会社とは関係ない会社の内定を
先にもらっていたのだが
そこも辞退させてもらった。

あれほど夫をきらっていた次男が
夫の会社の関連会社に
就職を希望するとは
思ってもみない事だった。

次男の就職は
私の方向性を再び変える事となった。

10年近く前から
長男は会社の寮に入っていて
長女は自分でアパートを借りていた。

次男が内定をもらった会社は
場合によっては
私と一緒に住める条件がそろっていた。

夫がいなくなり
家族が4人しかいないのに
4人がそれぞれ別に住むのは
経済的な事もあるが
家族がバラバラになるようでイヤだった。

次男が住んでも住まなくても
一緒に住める条件のアパートを見つけて
用意だけはしておこう・・・そう思った。

そして、私は次男の就職先である
実家のある市の近辺で
就職先とアパートを探し始めた。

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2012年5月27日 (日)

思い出

自宅のある場所に比べて
レオパレスのある市には
とても魅力があった。

そのため、そこを離れて
違うところに住むには
未練がありすぎた。

多少田舎と言う事もあって
ごみごみしていなくて
それでも必要なものは
周りに揃っていた。

スーパーも、病院も
銀行も郵便局も
スポーツできるところも
車で10分もかからないところにあった。

高速も鉄道も
車で15分もあれば
行けるところにあった。

そして、窓を開けると
実家からも見えて
子供の頃から大好きだった山が
遠くに見えた。

それは実家が見るのとは
方角が違うせいか形も違うのだが
その山が遠くに見えるだけで
なんとなく安心できた。

自宅は山と山の谷間にあるため
目の前に山がそびえて
圧迫感があり
空がとても狭かった。

そして、太陽が見えるのは
10時を過ぎた頃になってからだった。

でも、レオパレスは
その山とは違う山のふもとにあって
傾斜地に建てられていたので
何もさえぎるものがない絶景だった。

遠くに見える大好きな山の稜線から
朝日が昇るのが見える
そんなところもお気に入りだった。

私は良くレオパレスの窓から
その山を眺めて
朝日が昇る時間は
窓を開けて夫にも見せていた。

2010511

夫は
「ステッピーは
あの山が本当に好きだなぁ~happy01
自宅から見える山なんか
まるで壁だもんなcoldsweats01
と、言って笑っていた。

レオパレスでは
夫と、結婚して初めて
二人だけでママゴトのような
新婚生活もどきをする事ができた・・・

夫が病気で
大変な事のほうが多かったが
私にとっては、夫と生活をしてきた30年の中で
最も夫婦らしく過ごせた1年弱だった。

夫が病気でさえなかったら
最も幸せな時だったのだと思う。

二人きりで過ごす時を持てなかった私達に
神様は最期にそういう時間を
与えてくれたのかもしれない。

そんな夫との貴重な思い出があるのが
そこを離れたくない
一番の理由だった。

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2012年5月23日 (水)

方向性

夫は、平成四年に家を建てた際
自分の通勤や子供達の将来の事を考えて
違うところに土地を買って建てる事も考えたのだが
夫の母親の意向も強く逆らえなかった。

しかも、夫の母親は、家を建て直すなら
4人の娘達が家族を連れてきても
全員泊まれるような家でないと
作らせないと言って譲らなかった。

もともと
土地も家も夫の名義なのだが
夫の母親は、そういうところも
強く主張する人だった。

そのため、最近になって他の人から
「家って、どのくらいの大きさなの?」
と、聞かれて、あらためて数えてみたら
9LDKもあった。

せっかく夫が建てた家が
もったいないとは思うのだが
私が又そこへ住めば
離れて暮らしている子供達の
気持ちの負担になる事も解っていた。

夫は結婚までは
会社の独身寮にいたのだが
結婚して家に入るまで
冬の週末は除雪のために毎週自宅へ帰っていた。

父親を早くに亡くして
母親だけでの除雪は無理だったし
商売もしていたし

家の前だけの除雪ではなく
道路に出るまでの道の除雪をするために
週の途中で夜中に帰ったりする事もあった。

だから、結婚するまで
冬に夫と会う事はめったになかった。

夫がそうしてきたように
私一人がそこへ住む事によって
そういう面でも
子供達に負担をかける事になってしまう・・・

自宅の近所に馴染めなかった事
冬の除雪の事、仕事の事
子供達への負担の事

そして、そんなに残り多くない自分の余生を
夫ができなかった分
自分らしく、少しでも楽しく過ごしたい・・・
そう思って自宅に住まない事を決めた。

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2012年5月20日 (日)

非合理的

とにかく子供達の重荷にならないように
と、言う事を心がけながら
就職を探し
アパートを探す事となった。

自分一人で生きて行くのだから
仕事をする事はもちろんだけど
自分が住みやくて
子供達に負担をかけないところに
住むことを優先したいと思った。

自分はどちらかと言うと
合理主義なのだと思うのだが
自宅での生活は
私の感覚と折り合いをつけるのには
無理な事が多かった。

そういう家庭は
都会のほうだってたくさんあるだろう
と、思われる通勤・通学も

自宅から駅まで片道5キロほどを
毎日私が駅まで車で送迎をし
夫も子供も1時間半ほどかけて
通勤・通学をしてきた。

「バスがあるだろう?」
と、良く言われるのだが
朝7時前に家を出なければならなくて

夜は7時過ぎでなければ
最寄り駅に着けない場所に自宅があるので
そんな時間に動いているバスは
田舎にはなかった。

例えあったとしても
バスの定期を買えば
一月、一人分が2万円ほどにもなる。
経済的にも無理な事だった。

自宅のある町では
中学まではバスでどうにか通えたが
20キロ圏内に高校がなかった。

夫は、その通勤・通学に間に合うように
冬は庭の駐車場と
道路までの道を1時間以上もかけて
除雪をしていた。

雪が多い時は
前日、会社から帰ってから
翌朝に備えて除雪をした。

6人家族のうち
人数の多い時は
3人が電車で通っていた。

しかも、電車の都合で
行きは最高でも2回の往復で済むのだが
帰りは3回になる事もたびたびだった。
とにかく、そんな事に追われる毎日だった。

夫の職場も子供達の学校も
電車で行き着いた先は
それぞれが、さほど遠いところではなく
同じような場所に点在していた。

そのあたりに住めば
子供達の電車賃とガソリン代だけでも
アパートくらい借りられるよね
と、夫と良く話をしていた。

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2012年5月16日 (水)

健康

2月に夫が亡くなり
少しづつ気持ちも落ち着いてきて
いろいろな事を考え始めるようになった。

同級生のAちゃんに誘われて
筋トレにも行くようになった。

一人で生きて行くには
病気をしない健康な身体と
体力が必要だと言う事を
ひしひしと感じ始めていた。

同居をしていた夫の母は
運転もできなくて
田舎に住んでいたので
とにかくタクシー代わりになる
息子や嫁が必要だった。

そして、自分で努力をしてみる事なく
「私にはできないから・・・」
と、言って全て押しつけてくる人だった。

そうしているうちに
どんどんいろいろな事ができなくなって
まだ、それほどの歳でもないのに
電車やバスに乗る事も
食事を作る事さえもできなくなっていった。

私の事を
「弱い嫁をもらって損をしたthink
と、言っていたわりには
自分は病院通いが多くて

その度に当たり前のように
こちらの都合も考えずに
仕事を休ませて
タクシー代わりに私を使う人だった。

病気の時はしかたないが
血圧の薬をもらいに行く時や
眼科や歯科の定期検診などは
私の仕事の都合に合わせてくれたら良いのに
と、良く思ったものだった。

自分が大変な思いをしてきたから
私は、歳をとっても
自分の都合で子供達の生活に
支障を与えないようにしたいと思っていた。

これから先はどうなるかわからないが
できるだけ最期の時まで
自分の事は自分でしたいと思うし

夫婦二人でいれば
どちらかが具合が悪くなった時は
病院に連れて行ったり
看病をしたりもできるけど

私には夫がいないのだから
夫が迎えに来てくれるまでは
なるべく丈夫でいなければ
子供達に迷惑がかかってしまうのだ。

そんな事を思いながら
食事は、あいかわらず
ゲルソン療法に近いものを食べていたし

筋トレもするようになって
更年期と呼ばれる時期に突入したのに
病気らしい病気をする事がなくなっていた。

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2012年5月13日 (日)

友達

夫が亡くなってから
いろいろな人があちこち誘ってくれた。

最初は、喪に服している時に
どうなんだろう?と、思ったりもしたが

例えば私が一人で家に閉じこもって
毎日毎日泣いていたとして
果たして夫が喜ぶだろうか?

そんな気持ちもあって出掛けられる時は
なるべく出掛ける事にした。

高校時代の同級生の
Aちゃんの家には
近所だと言う事もあって
2~3日に1回は行っていた。

そして、高校時代の同級生も
ひんぱんにレオパレスのある市へ
出掛けてきてくれて
Aちゃんの家で、いつもの4人が集まった。

中学、高校の男の同級生は
何かと心配してくれて電話やメールをくれた。
そして、困った事があると
力も貸してくれた。

18歳で高校を卒業して
夫と同じ会社に就職した私は
4年で会社を退職して夫と結婚した。

夫の葬儀には
その時の仲間も来てくれていた。

自宅にいた時は
友達と会うにも高速を使って
1時間かけていかなければならなかったし
自営業をしていて夫の母と同居をしている私には
到底外出などできなかった。

私が、自宅に戻らず
そのままレオパレスにいる事を知った
会社の同僚からも誘いがあった。

久しぶりにランチをして
楽しい時間を過ごした。

中学時代の親友は
お互い夫の親との同居生活で
長年電話もできなくて
疎遠になっていた。

それでも、5年ほど前から
携帯電話のメールで
連絡がとれるようになった。

彼女はまだ、義母と同居の生活だったが
自分で仕事を持ち自立していた。

そして義母のボケが始まったせいもあって
旦那様に義母をみてもらって
外出もできるようになっていたので

彼女の仕事が終わってから
私が住んでいる市まで彼女が来て
二人でディナーをする事ができた。

久しぶりに二人で会ったせいで
何から話をして良いか解らなかったが
今は何回も会う事で
昔のような会話ができるようになった。

当時、私がしていた仕事も
任期がきて辞める事になり
その時の友達には
自宅に泊まりに来てもらったりもした。

高校時代の同級生は
私が泣いている訳でもなく
あちこち出掛けている姿を見て

空元気なんじゃないか?とか
あとで反動がくるんじゃないか?とか
一人になったら落ち込んでいるんじゃないか?とか
逆に心配してくれていたようだった。

本当に持つべきものは友達
と言う言葉は
こういう時に使うものなのだろう
と思わずにはいられなかった。

私は、今まで自分の事はほとんどできずに来て
初めて、自分の事だけをして過ごした。

歯医者に行ったり
マッサージにかかったり
友達に会ったり
ランチをしたりディナーをしたり
泊まりで出掛けたりもした。

私にとっては
傍に夫がいない・・・と言う
心の中にあいた穴がある以外は
何不自由のない生活となった。

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2012年5月 9日 (水)

車の名義変更

車の保険は夫の会社に
お世話になっていたが
車の名義も長男のものを抜かして
全て夫の名義になっていた。

決まり事は良く解らなかったのだが
車の保険を会社のものから変更するにあたって
車の名義をそれぞれ乗っている人の名義に
変更する事にした。

車を修理してくれているところで
代行してくれるような事は言われたのだが
3台となると2万円近くかかるようだったので
自分でする事にした。

インターネットで調べると
その事も相続にあたると言う事だった。

揃える書類は発行されてから3ヶ月以内のもの
と言うのが多かったので
余分に数枚とってあったものが
無駄にならないように
急いでする必要があった。

インターネットには
自動車のオーナーが亡くなった場合に
自動車の名義変更の手続きをするには
相続の手続きが必要になります。

次の所有者を単独の名義にするには
遺産分割協議書を用意しなければいけません。
また共同相続での相続人全員で
自動車の所有とすることもできます。

必要なものは
発行されてから3ヶ月以内の除籍謄本
被相続人(死亡者)のもので
相続人全員の記載が必要。

発行されてから3ヶ月以内の
単独相続する人の印鑑証明。

単独相続人の実印を押印した委任状。
必ず実印で押印する必要があります。

自動車検査証(検査有効期限のあるもの)
申請書(OCRシート1号)
手数料納付書(登録印紙500円貼付)
車庫証明書(使用の本拠が変わる場合)
自動車税申告書

と、書いてあった。
そして、いろいろ調べながら書類を揃えた。

車庫証明を娘のアパートのあるところの
警察にもらいに行ったり
カードを借りて役場に印鑑証明をもらいに行ったり
書類を書いてもらいに行ったりして
娘のアパートにも何回も行った。

私と次男は自宅の住所のままだったので
夫と同じ住所だったため
いくらかしなければならない事は少なかった。

相続と言う事で
自分名義の車を持っている長男にも
印鑑証明を用意してもらったり
書類に記入してもらう事になった。

陸運局の窓口では
やり慣れている方達に混じって
もたついて迷惑をかけないように
物事をこなすのに大変だった。

しかも、一回できた次男の車検証は
むこうの手違いで間違えていた箇所があって
その場で直してもらう事になった。

それでも、どうにか無事に
済ます事ができた。

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2012年5月 6日 (日)

四十九日

いろいろな事をこなしていても
次の事がどんどんやってきていた。

さまざまな手続きをするために
あちこちへ行き
その間に四十九日の用意も
しなければならなかった。

本当の四十九日は
2010年3月22日(月)なのだが
和尚さんの都合を聞いて
3月20日(土)に四十九日を設定した。

自宅のあたりの四十九日は
親戚や隣近所など
初七日と同じだけの人を呼んで
お参りをしてもらう事になっていた。

パソコンで案内状を印刷し
返信用のハガキと共に入れ
四十数通の封書を投函した。

何人かは都合の悪い人もいたが
ほとんどの人が来てくれた。

長男も葬儀から
挨拶やら何やらをやってきていて
そういう事を、いとも簡単に
こなすようになっていた。

そんな様子は私からみたら不憫だった。
子供達には父親がいないのに
五十を過ぎた私には
まだ父親がいるのだ。

四十九日の細かい事は
葬儀の時にお世話になった
葬儀屋さんが用意をしてくれたり
相談に乗ってくれたりした。

この時の葬儀屋さんは
長男よりも5歳ほど年上の人だったのだが
初めて会ったのは
夫を病院に迎えに来てくれた時だった。

その時は
あまりにも若い人だったので
申し訳ないが頼りなさそうに見えて
不安に思ってしまった。

それでも、葬儀の時も
てきぱきと物事をこなし
普段は見当たらないのに
こちらが困った事にぶち当たると
どこからともなく現れる人だった。

子供達と私は
そんな葬儀屋さんにすっかり甘えてしまって
困った事があると
何でも相談するようになっていた。

困った事が起こった時に
どこからともなく現れる彼の事を
子供達も私も、いつしか
「スーパーマン」と呼ぶようになっていた。

私達は「スーパーマン」のおかげで
戸惑うことなく四十九日の用意をし
当日も何の問題もなくお参りをし
来てくださった方々に食事をしてもらう事もできた。

夫の骨壺を納骨してくれたのも
「スーパーマン」だった。
彼は180センチ以上もある身体で
狭い納骨堂の中に骨壺を納めてくれた。

四十九日が終わると言う事は
夫が霊ではなくなって
仏になると言う事。

そして、私のもとから
遺骨が離れて
墓の下に眠ると言う事。

そして位牌は
白木の位牌から漆の塗位牌になった。

家にいる時は
寝る時以外絶やす事がなかった
ろうそくと線香も
朝のお参りの時だけになった。

夫が成仏できるように
毎日し続けてきた事で
夫は極楽浄土へ行けただろうか?

そして、夫の位牌の前でつぶやいてみた。

「ずるいなぁ~・・・
私の時なんか
これだけの事を
子供達ができるとは思えないよdespair

夫は、草葉の陰から
笑っただろうか?
謝っているだろうか?
そんな独り言が多くなっていった。

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2012年5月 2日 (水)

保険

夫が亡くなって
いろいろな手続きをしている中で
保険の壁にぶちあたった。

家の火災保険
車の保険
私の保険・・・

家の火災保険も車の保険も
夫の会社の団体保険に入っていた。

しかも、夫の車、私の車
そして子供3人の車
全てが夫の会社の
団体保険に入っていた。

とりあえず
「現在入っているものが満期になるまでは
そのままで大丈夫です」
と、言われたのだが
4台の車は次々と満期を迎えた。

友達から聞いて
満期になるたびに
よさそうな保険会社へ変更した。

家の火災保険は
思ったよりも手こずった。

当初、火災共済に入ろうと思ったのだが
結局は、自宅に住むつもりはなくて
職を見つけて、落ち着いた場所があれば
住民票を移す予定になっていた。

火災共済を調べると
現在住んでいない住宅には
火災保険に入れない
と、書いてあった。

いろいろ調べて
掛け捨てで、値段が手頃で
しかも補償がしっかりしているものに
入る事にした。

そして、病気やケガの保険・・・

長男と長女はすでに成人して
自分で働いているので
自分で保険に入っていた。

私と次男は
夫の扶養になっていたので
夫の会社のグループで運営する保険に
夫の付属で入っていた。

そのために夫が亡くなってしまったとたんに
病気やケガの保険がなくなってしまった。

夫の会社のグループで運営する保険は
退職しても引き続き継続できると言う事で
安心していたのだが
本人が亡くなってしまった場合は
そこで終了になってしまう。

とんでもない落とし穴だと思った。
次男のほうは、まだ若いし
そこからでもどんな保険にも入れるだろう。

でも、私のほうは年齢もそれなりだし
ここから自分の保険に入るのは
結構大変な事だと思った。

それでも、幸いな事に
今まで無理をしながら体調は崩していたが
保険に入れないような病気で
病院にかかる事もなく

薬も飲んでいなかったので
掛け金はそれなりに高いが
病気とケガの保険に入る事ができた。

同じように旦那様を亡くした人で
すでに病気をしていたり
薬を飲んでいる人は
大変だろうな・・・と、思った。

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